勝松神社
<わが町の氏神様>



  兵庫県姫路市保城字垣内58 

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  1579年(天正7年)、羽柴秀吉の三木別所攻めの兵火

播磨と周辺の情勢

室町時代の播磨は、守護職赤松氏の領国だったが、嘉吉の乱で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠した。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていた。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多直家、畿内を制しつつある織田信長が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいた。この2つの勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていたが、信長に京都から追放された足利義昭や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切る。

播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城主小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなる。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。

しかし、織田・別所間の関係は同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りするが、同年3月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される。

離反の理由

別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものである。これ以外にも数多くの要因があり、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感などが挙げられる。

三木合戦

別所氏の篭城

三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まり篭城した。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり)だった。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となる。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木氏などによって兵糧の海上輸送が行われた。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んだ。

これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採る。天正6年4月、支城の1つである野口城を落城させるが、同じ頃に毛利氏の大軍が尼子勝久の上月城を包囲する。秀吉は東播磨での展開を一次中断、織田信忠を大将とした軍勢で上月城の救援に向かう。

膠着状態が続いたため、織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略する。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しなかった。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢で6月から10月にかけて別所氏の主だった支城を攻略、また、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築く。これによって別所氏は補給が困難になる。

兵糧の輸送と阻止

ところが10月、織田氏の武将荒木村重が離反し(有岡城の戦い)、毛利氏について有岡城に立てこもった。荒木村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置する。これによって、摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹羽山を越え三木城へという新たな補給路ができる。秀吉の部将黒田孝高が説得に向かったが、村重に捕らえられ有岡城に幽閉された。孝高の主君小寺政職が村重に呼応したために取った処置とされる。

翌年の天正7年(1579年)2月、一応の補給路は確保されているものの、このままでは兵糧不足に陥ることは明らかで、別所氏はこの局面を打開するために秀吉の本陣平井山へ約3000人を出兵する(平井山合戦)。しかし人数、地形共に別所氏に不利な状況であり、別所長治の実弟別所治定が討死するなど別所側の敗戦となる。

5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となる。6月、反織田の共同戦線の一角、波多野秀治の八上城が明智光秀に落とされ、秀治は捕らえられて処刑された。13日、秀吉の部将竹中重治が平井山の陣中で没した。

9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行される(平田合戦・大村合戦)。毛利氏の補給部隊が秀吉の部将谷衛好の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵する。混戦になるが、別所側は淡河定範など多くの武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終わる。

10月、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による支援が不可能な状況になる。織田氏は降伏勧告を行うが別所氏は拒否する。11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田軍に攻略される。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。これをうけて織田軍は三木城内の支城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。17日、城主一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。有岡城に幽閉されていた黒田孝高は家臣に救出され秀吉と再会、一方の小寺政職は御着城を織田軍に落とされ、毛利氏の元へ落ち延びた。この後孝高は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となった。


合戦の影響など

合戦前・序盤

公卿である下冷泉家の冷泉為純・為勝親子は三木城に程近い播磨国細川庄(現在の三木市細川町)に下向し直接所領を治めていた(そのため細川氏とも呼ばれる)。しかし、秀吉側に与したと見なした別所勢の攻撃により合戦序盤に滅ぼされている。

合戦後

この後、織田氏は中播磨、西播磨の諸城を攻略し、播磨を平定する。
浄土真宗以外にも、中世には多くの寺社勢力が兵力を持っており、播州征伐に関わって兵火にみまわれている。
秀吉は三木城内の戦死者の供養や三木城下町の再興などを行っており、悲惨な合戦であったにも関わらずそれほど恨まれていない。
三木合戦以降、秀吉は城攻めにおいて兵糧攻めを用いることが多くなる。また、城主一族の切腹を条件に城兵は助命するということも何度か行うようになる。
秀吉の播磨平定によって、それまで「地方への玄関口」であった播磨に「畿内への玄関口」としての性格が生まれ、後に広大な姫路城が築かれることになる。
一時没落した下冷泉家は、為勝の弟である藤原惺窩による尽力の甲斐もあって後に再興を果たした。
 
   


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